連載第二回目

★国語・作文が大嫌い
私は昭和33年11月12日、福岡市中央区大名で生まれました。当時、父は岡山県総社市出身で福岡シティ銀行の営業マンでしたが、その後30代で最年少取締役になるほどのエリート。しかも、昭和6年生まれでほとんどの人が大学にも行かない時代、「東の一橋」「西の神戸」と言われる神戸大学経営学部卒でした。さらに、これは40歳過ぎて事実を知ったんですが、父方のお爺さんは、福岡シティ銀行創業者メンバーの一人。母も総社市出身で、実家は「カヤノ写真館」を今も総社でやってます。
こういう家系だったからか、幼稚園からオルガン、小学生になって習字、絵画、剣道などに通わされ、小学校高学年からは塾に通ってました。しかし、成績は3が中心でたまに4がある程度。特に嫌いだったのが国語で、その中で一番嫌いだったのが「作文」でした。何かを書けと言われても、空欄を埋める記憶モノはまだ良かったんですが、自由に何かを書けと言われると何も書けない。子供心に辛かったですね。だから国語が大嫌いに。
★自信作の修学旅行記
そんな中、小学校6年の時に修学旅行があり、その旅行記を皆で書くことになりました。なぜかその時は燃え、しかし、自分の文章はほとんどなく、ただし、行った先の名所や人物のことを辞書で調べ、まあ、そのまま書き写しただけなんですが、結構なボリュームの日記=ルポみたいなものが出来たんです。子供心に「ここまで書いたモノは無いんじゃないか」と密かな自信。
提出後、先生から皆に返却されるとき、「今回の中で素晴らしい日記がありました。旅行先のことを詳しく書いてあり、ビックリしました・・」。俺のことだと嬉しくなりましたが、「それは篠崎君です。よく頑張りましたね」と。エッと思って篠崎(当時のライバルの一人)の顔を見ると、キョトンという顔をしてるんです。
「先生、違う。それは僕の日記でしょ。違うよ」と言いたかったんですが、なにせ小6です。結局、先生に確かめることもせず、誰にも話さず、悔しい思いをしました。私が最初に、文章に対して拘りというか意識をした出来事でしたね。
★やっぱり国語・作文が苦手
しかし、その後、中学に入っても相変わらず国語は苦手、作文もダメ。国語もいつも3。他の成績もまあ、平均で3,5と言った感じですね。だから読書も皆無。マンガ「巨人の星」に憧れて野球部に入りましたが、ウサギ飛びや他の練習が苦痛で半年で挫折。好きな女の子がバレーボールに興味あると聞いて、「サインはV」の影響もあってバレー部へ。魔球「稲妻落とし」なんかの練習もしましたが、当時は背が低くてやっぱり鍛錬練習がイヤ。結局、レギュラーになれず、2年でやめました。
で、高校進学のための受験勉強やってましたが、百道中学で同級の中村恵子という女の子が好きでスキで頭から離れず、かつ、天地真理や小柳ルミ子やチューリップに夢中になり、特に南沙織にはぞっこんで、さらに深夜ラジオ「青年は荒野を目指す」や「スマッシュイレブン」なんかに聴き惚れ、「ながら勉強」でウダウダ。生まれて初めて本を読んだのは「タイムトラベル」とかいう外国の小説で、それも何か本くらいは読んでおかないとという見栄のためでした。その頃も相変わらず国語・作文は大の苦手でしたね。
★高校受験裏口入学?
福岡市の地元高校では私立より公立が優秀で、私の学区でトップは西新にある修猷館高校=歴代の廣田首相やその他産官学に相当な人材を送り出している=でしたが、当時の私の偏差値では到底無理。
仕方なく校区で2番目の福岡県立城南高校に絞りましたが、ここも当落線上ギリギリ。滑り止めで、たしか西南高校を受けたかな?で、城南高校の受験になるんですが、ここで「裏口入学」の場面に自ら遭遇することになります。