連載第八回目

★アメリカ短期留学
昭和56年、そういうわけで立命館大学の自主留年を3回生の終わりに決め、4回生からは「アメリカ短期留学」と「少林寺修行」と「日本的経営の勉強」に専念しました。4回生になると就職活動で何もできない。このまま卒業は嫌だと。まあ、私達昭和30年代生まれはしらけ世代・無気力・新人類の走りですね。明治~昭和10年代の爺さんや親父の世代・戦争世代が今の日本を創り、団塊の世代=昭和20年頃の全共闘世代が、その前の悪い部分?をたたき壊し、その後には何も残ってなかった。
「二十歳の原点」やかんば美智子?本を読み、角材闘争なんかを期待してたんですが、当時の立命館は学長が共産党員で学内は民青一色。対立団体もなく、大人しいものでした。同志社や京大はたまに闘争・殴り合いがあり、羨ましいと思いましたね。燃えるものがあっていいなあと。一応、それに関係ありそうな「部落問題研究会」とかにも顔出しましたが、今のマルチ商法的な勧誘しかなく物足りなかった。ただ、狭山事件は一時期調べ、京都近郊の部落や八鹿高校、関係ないですが、大阪西成や釜崎もぶらぶらしました。何かあるんじゃないかと。まあ、活動に突っ込むほどの問題意識も時間もなかったですがね。
★就職活動を開始
こうして留年し、NYのコロンビア大学へ手紙を書いて安売りチケットだけ持って3ヶ月英語の勉強(さっぱり??でした)。ハーレムで少林寺を教え、英語クラスの先生に22歳にして男にしてもらい、5回生の夏頃から就職活動を始めました。自信はありましたね。
大学2年、3年時には少林寺拳法関西大会で2年連続優勝(パートナーの久保田和之=立命の2年先輩で今は滋賀の私立高校で先生=というスゴイ男に恵まれたんです)。ついでに校内格闘技決定戦でも優勝。本は500冊は読破したし、成績もまあ上の下。ただ今考えると子供でしたが、自主的とはいえ留年したのがもの凄いマイナスだと思ってました。現役入学でしたし、実際はほとんど関係ないですがね(中退・高卒でも、実力派の成長企業なら全く問題ない。世間体気にする大企業はダメよ)。皆と同じ、やりたいことなんてわからない。とりあえずは上場企業・有名企業だと、下宿に来たダイヤモンド社の雑誌で適当に選び、大沢商会、内田洋行、丸紅、兼松、松下電器貿易、NEC、日興証券、山一証券あたりを廻りました。兼松、NECあたりは暗に「立命くらいじゃダメ。出世できない」と先輩訪問からわかり、狙いを松下電器貿易に絞りましたがダメ。結局、9月までに内定もらえたのは証券会社だけでした。田舎へ戻ることもチラッと考えましたが、こんな福岡あたりでくすぶるのは嫌だ。やはり、男は大都会東京だ!せめて大阪だ!そして、人生の成功は有名大学→有名企業に入って出世することだ、中小企業や独立起業なんて100%頭の中にはありませんでしたね。商売人とか、あれは駄目な人間がやることだなんてね。で、仕方ない、日興証券にでも行くか。でも、何となく働くのは嫌だな。松下政経塾か慶応のMBA、立命の大学院もいいなと資料は請求してました。
★一部上場企業の社員に
そんな9月中旬、一通のDMハガキ。見ると「ヤマハ発動機。二次募集!」。静岡本社ということで全く考えもしなかったんですが、当時はオフロードバイクで走り廻っていたし、一部上場で超有名企業。でも入社なんて無理、こんなところは東大や京大や早稲田慶応ばかりで、立命程度じゃねと思いましたが、まあ受けるだけ受けてみるかと大阪の地産ビルで面接。6人ごとの集団面接でしたが、他に内定も貰ってるし、どうせ受からんだろうと横柄に対応。文武両道でこんなヤツいないぜ!みたいなノリで、大人しく「なく」面談を終わりました。
二次面接があったかどうか忘れましたが、結果は合格!
「おお、やったぜ!証券会社よりもこっちだ」と、女と名刺交換した時に「ヤマハの栢野」と「日興証券の栢野」では、絶対にヤマハの方が格好いい。モテルし、友人知人、家族にも自慢できる。申し訳なかったですが、日興証券には「大学院へ行くことになった」とウソついて断りました。この内定を断ることに悩む学生が多いですが(私も相当悩みました)、結論から言うと全く問題ない。中には大学に迷惑かけるなんて思ってる人いますが、全く何の問題ない。どこに行こうが、途中で辞退するなんかどんどんやればいい。自分の人生は自分で決めるんです。こうして一部上場企業の社員になることが決定。「俺は人生に勝った!」と思いました。