連載第二十六回目

★ノンバンクへの連帯保証人
1992年6月、私は帰るつもりがなかった故郷に帰ってきました。
母がかぶった他人の借金は、代位弁済相手は恐い街金融。金利は数十パーセントで暴利なので、急遽、亡父がいた福岡シティ銀行の役員に相談。全財産=家が2件に土地17坪を担保に入れて、銀行関連のノンバンクから1億円を借りて、街金2社には弁済。残った資産=銀行の株券を切り売りしながら、同時に家の売却をすすめました。この際、私と弟も新たにノンバンクへの連帯保証人になりましたが、書類上とはいえ、1億円債務の迫力は凄まじい。弟の嫁さんはこの話を聞いて倒れ、後日、弟は保証人から外しましたね。
こう書くとサラリとしたものですが、この間に罵倒、喧嘩、バイクでの自主捜査、裏切り、悲観、絶望などなど、それはもういろいろありました。まあ、それはまだ序の口の出来事ではありましたが…。で、とりあえずは手元の株を売りながら、銀行系ノンバンクに毎月60万円!の返済。原資は1年は持つが、その後は全く不透明な当時33歳。東京で起業はしていたが、実質プータロー状態で、20年ぶりの福岡でも起業はムリ。まずは就職だと、「ふくおか経済」という地元雑誌に記者で転職できないかとと打診したが、社員の平均年齢は20代で編集長も私より年下。コリャダメだと、求人広告を見たり人材銀行に登録しました。そして、東京時代に使っていた自分の会社の名刺住所を福岡に変えて、様々なセミナーや異業種交流会に参加。福岡の状況を把握しようとしました。
★失業時代に個人名刺を作る
後で考えると、この「失業時代に個人名刺」を作って、あちこちに顔を出したのが良かったですね。普通、失業すると「名刺はないんで・・・」という人が多いですが、「自分」という商品がある。無名の東京時代から、単なる屋号と名前と住所の名刺では特長がないと、過去の経歴や趣味を名刺の裏まで書いたモノを使用しましたが、この名刺様式(小さな会社☆儲けのルールP205で紹介)を考案したのは、最初の起業での成果ですね。今では全国数百人の方々がマネをしてくれ、この1ヶ月でも講演で数百名に会いましたが、名刺を貰うと一目で読者だとわかります。うれしいですねえ。
こうして売りに出された自宅を拠点に、毎日、どこかに顔を出し、同時にラッキーなことに、東京時代に「ビジネス社」で担当していた月刊「流通ビジネス」の契約ライターとして、毎月わずか数万円ですが企業取材やエッセイのページを担当。就職活動&返済活動&取材活動を本格的に開始しました。
★奇跡的?に7社目の転職
人材銀行から紹介された印刷会社に内定は貰いましたが、どうもそこの時期2代目社長とウマがあいそうにない。たまたま見ていた雑誌に「アド通信社という広告代理店が、新卒就職広告雑誌のダイヤモンド九州版を発行」と記事がある。自分の経歴からして印刷会社よりも広告代理店が向いてると思い、交流会で知り合っていた帝国データバンクの記者に調べて貰うと「なかなかの優良会社」。しかし、別に求人広告を出しているわけではありませんでしたが、長年のカンで「募集広告を出していなくても、伸びてる会社は常に人材は求めている」と考え、アド通信社に飛び込み訪問。
「オタクの雑誌を貰いたいんですが・・・。東京からUターンして無職なんですが、昔はこういう雑誌の営業をしていましたねえ・・」なんて、それとなく経歴を披露。果たしてどこまで乗ってくるか?でしたが、案の定、数日後に電話がかかってきました。「うちも受けてみてはどうですか?」と。シメシメと受験し、「印刷会社も内定を貰っていますので結論を急いで下さい」とセカしてなんとか内定を確保。33歳にして奇跡的?に7社目の仕事をスタートさせました。感謝すべきは1億円の債務を抱えてるにも関わらず、正式採用してくれたこと。後で分かりましたが、創業者の増田社長も学生時代に下宿で火事を起こし、その借金返済のためにガムシャラに働いたことがあり、マイナス要因や負債はむしろ原動力になる!との判断もあったようです。