連載第四十三回目

★最低限の返済と生活
こうしてかぶった借金1億円でしたが、2軒あった家を売却して約5500万円を捻出。さらに亡くなったオヤジのいた福岡シティ銀行の株券を売却しながら返済を続けていたんですが、それも’95年にはなくなり、残るは親類と共同所有の土地が17坪。しかし、当時土地はドンドン下がってましたので、金に困ってないオジさんは売る気ナシ。それでも毎月50万くらいの返済があり、もう当時手取り30万のサラリーマンでは返済が出来ない。もっと稼げる仕事はないかと、佐川急便なんかに問い合わせたんですが「27歳までです」でダメ。色々考えたあげく、当日勤めていた広告代理店・アド通信社のお客を半分ほど貰えば、なんとか最低限の生活と返済ができると考え、お客に事前に根回し。そして、会社にも正直に事情を話し、’95年8月、2度目の独立をしました。その年は阪神大震災、地下鉄サリン事件が続けて起き、何か不安でしたね。
★子供と事務所へ出勤
事務所は福岡の中心部、天神のライオンズマンション2DK。広告業ですから、本来は電話とFAXとパソコンが在ればデキル。経費節約のためには自宅がベストでしたが、当時は取ってきた広告コピーは自分でやってましたが、デザインができない。印刷会社との打ち合わせもあると、無理して自宅とは別に事務所を構えました。ビルの一室は保証金や家賃も高いですが、マンション事務所だと安い。
でも当時、手持ち資金は150万しかなく、机は通販の木造組立式で2万くらいのヤツ、その他も中古品や段ボールを本箱に使い、まさにあわただしく起業しました。実はその前年に結婚したんですが、独立1ヶ月前に妻が出産。他人を雇う金も能力もないですから、事務や電話などは妻がいないと困る。しかし、保育園へ預ける金はない。毎日赤ちゃんも一緒に出勤し、事務所の押入で育てながら仕事をしましたね。泣いているときは、かかってきたコードレス電話をもって、慌ててベランダに出たモンです。
その2年後、次男が生まれたときも、生後1年までは事務所で育児。事務所に遊びに来た友人や知人は赤ちゃんがいるので皆ビックリしてましたが、おかげで長男も次男も人見知りせず、対人能力が高い?。こんな感じで怒濤の2度目の起業生活が始まりました。