連載第二十五回目

★連帯保証1億円
「克己さん、大変なことになった。あんたの家が差し押さえになり、他人の連帯保証1億円をかぶった。既に競売開始決定になっている!」電話は福岡の平川さんといって、亡くなったオヤジの銀行時代の同僚でした。「はあ???」。私は何のことか一瞬わからず、ボケーとしてました。借金1億?家が差し押さえ?なんで????。
要は実家が、連帯保証で他人の借金をかぶったということ。田舎の福岡に一人いる母が他人の保証人になり、相手の人が借りていた借金が返せず、保証人になっていた母のところに街金から代位弁済請求が来たということです。その額が1億円!!!!
うそだろうと思いながら急遽帰り、土地の登記簿謄本を見ると、確かに事実でした。すぐに平川さんと弁護士や税理士にも行きましたが、そして母にも確認しましたが「全部事実」。母が納得?して実印を押し、自筆で連帯保証人に名前を書いていました。そして相手はなんと「地上げ屋のブローカー:佐賀県唐津の浦川清」。パチンコ店で知り合った母に、最初は5万円を借り、すぐに返済。次は10万円を借りてこれも返済。それだけでなく、「ある日、バラの花束を持って家にお礼の挨拶にきた。
「信頼できる人なのよ」(母)という、詐欺師がよく使う手で、気づいてみたら1億円の連帯保証。オトコが借りていた先はエビス信販に浪速商事という札付きの街金。あわてて警察にも行きましたが「民事不介入」でダメでした。
こんなことがあるのか!!!!!
★福岡へ帰るべきか否か
時は1992年春。東京でも何となくバブル崩壊という言葉が歩き出し、資産家の老人が殺されて土地家屋を取られたなんてバブルがらみの事件がありましたが、まさか自分の身に降りかかるなんて考えたこともない。でもこれは事実なんだ。
1ヶ月ほど悩みました。福岡へ帰るべきか否かと。俺はまだ東京で全然成功していない。このまま田舎には帰りたくない・・・。福岡では高校まで過ごしましたが、福岡へUターンなんて考えたことはありませんでした。人口130万都市だが、東京に比べれば田舎。なんか遅れているし、知り合いももういないし、ダサイし・・・。
しかし、母はもう正常な思考能力がなく、「あの人は悪い人じゃない。かならず返す人」とは言うが、こっち側で調べても、関西の怪しい新聞社系列の地上げブローカーの下っ端。かつ、実家の唐津和多田の先祖の土地も売り払い、子供や周囲にも迷惑をかけ、他の騙された人からも電話がかかってきました。「うちは500万だけど、あんたは1億ね。そりゃやられたね」なんてね。ああ、もう、こいつはダメだ。
こいつを追いつめても返済もできないなと覚悟を決め、福岡へ帰ることにしました。1992年6月のことです。
★33歳で福岡へUターン
当時つき合っていたが、事情があって結婚は出来ない東京の彼女と最後のデート。
たしかターミネーター2を新宿で観て涙の別れ。家財道具もほとんど処分し、33歳にして学生御用達:クロネコヤマトの一人引っ越しパックでテーブルとその他を送り、交通費節約のために乗っていたヤマハのオフロードバイクDT200を発進させ、東京都新宿区四谷の木造アパートを出ました。
東京時代も何もいいことはなかったが、今度は1億円の借金か。全く俺の人生はどうなっているのだ。大学を出てからヤマハ、リクルート、IBMリース・・・と、どの会社も3年持たずの挫折転職ばかり。そして脱サラ後も半年で廃業し、今度は実家が・・・。
先行きを暗示するかのごとく、旅立ちの日は豪雨。東京から甲州街道をバイクで走っていたんですが、コリャダメだとUターンし、結局はフェリーで東京湾を出ました。船中は雑魚寝の3等船室で、どこかのオジさん達とたわいのない会話。そして一夜明けると関門海峡が迫ってきました。ここを抜けると、まさに本州から九州に入ります。今でも鮮明に覚えていますが、その時の天気は曇りで、福岡方面の空はまさにドンヨリとした暗雲が垂れ込めていました。
関門大橋をくぐり抜けた時、「ついに帰ってきたな。これから闘いが始まるんだな」と、覚悟しましたね。勿論、福岡での職は何も決まっていません。家もどうなるのかわからない。はっきりしていたのは、理由はどうあれ、1億円の借金をかぶってしまったということ。自分の呪われた人生に悲観もしましたが、武蔵と小次郎が決闘した巌流島を過ぎる頃には、目の前の戦で興奮状態でもありました。