連載第四十九回目

★事務所の押入れで子育て
1995年に2度目の脱サラを広告代理店でしました。以前にも話したように当初の売上は順調でした。リーマン時代から譲り受けた聖心美容外科などを中心に、求人広告と営業広告・チラシ・パンフ製作を、自分一人で営業・企画・コピーライティング+外注のデザイナー・印刷会社でやりました。事務所は今もそうですが、ライオンズマンション2DKで家賃7万5千円。事務所備品は極力中古。机も通販の組立式の安いヤツ。実はこの独立の1年前に結婚し、独立した1ヶ月前に妻が出産。売上は順調でしたが、家が被った連帯保証1億円の借金?返済が毎月50万円あり、毎月火の車。だから、子供は事務所の押入れで半年間は、共に起業した妻が育てました。
今でも笑い話ですが、赤ちゃんはよく泣く。その最中に電話がかかってきたら、あわてて外に出て話していましたね。次の下の子も3年後に産まれるんですが、その子も押入れ育ち。大変ではありましたが、事務所に来た友人や出入り業者の方々に可愛がられ、そのせいか人見知りしないガキに育っています。
★毎月100万の返済
さて、仕事は’96年はクセだったウツになり低迷しましたが、’97年には交流会「ベンチャー大学」ゲスト約33人から10万円ずつ出資を受け、血気盛んに。ハイになり、元の会社とも大喧嘩しましたが逆に仕事を強引に奪って年商は倍増。福岡青年会議所のメインイベントも手がけ、絶好調でした。妻と2人の小さな事務所で毎月の粗利は250万円。ここぞとばかり、借金返済も毎月100万円にしていました。ところが’97年の10月、売上の9割を占めるメインクライアントと揉め、キレてこっちから「お前の仕事はもうやらん!」と仕事を破棄。バカですね。つまり・・・一気に売上が1/10=具体的には月商100万で粗利は20万程度に激減。まあ、しかし、元はゼロからやってきた俺だ。また新規開拓すればいいさと、飛び込みやリストアップしての電話営業をやったんですが、全くダメ。中小企業とはいえ、まだ前は地元では有数の広告代理店でしたが、独立してからは全くの無名。どこに行ってもけんもほろろで、無名の悲哀をイヤと言うほど味わいました。借金返済の減額に銀行と交渉したんですが、当時はすでに銀行も大変で「ダメです」。みるみるうちに金がなくなり、気づけば図書館や公園でボーとする毎日。そう、またもウツになり、すべてにヤル気を失いました。