連載第九回目

★俺は人生に勝った!
こうして新卒で一部上場企業のヤマハ発動機に入社。有名大学→一流企業に就職が人生の成功だと100%思ってましたので、「俺は人生に勝った!」と思いました。商売や独立起業・SOHO(そんな言葉はなかったですが?)それは駄目なヤツがやるもんだとね。
いざ静岡県磐田市のヤマハ本社へ。5年過ごした京都の下宿を買ったばかりのヤマハ・ミッドナイトスペシャルで出るときは、涙が出ました。俺の青春よ、さらば。これからは闘いだとね。でも、イザ走り出そうとしたらエンスト。下宿の西田オバサンや後輩達もガックリで私も恥ずかしかった。映画のような決めないといけないシーンなのに・・。
で、一路京都から磐田市へバイクを走らせ、研修センターに到着。2ヶ月の合宿勉強+工場実習の日々が始まりました。講義は退屈でしたが、合宿は楽しかったですね。全国から約200人。昭和57年。
ヤマハ発動機も原付のパッソルやRZ250というカッ飛びバイクが全盛期で、イイヤツばかりでした。しかし、同期=出世のライバルです。普段は笑いながらバカヤッテましたが、夜は経済学や経営・営業本を深夜2時まで読破。負けるもんかと気張ってましたね。
そして、合宿研修最後の成果発表の日。リーダーの私が率いるグループが優勝し、「どうだ。やっぱり俺が抜きんでている。お前らとは違うんだ」と真に思い、まわりにも「栢野。お前は社長だな」と言われました。
★東京多摩営業所に配属
配属申請でも、「ヤルなら日本一の東京だ」と東京支店を希望。府中の多摩営業所に配属となりました。ここで営業所の同期だったのがメルマガ・本の「営業マンは断ることを覚えなさい」の石原明。
先日、20年ぶりに会いましたが、今や年収数千万円の一流コンサルタントでビックリしました。で、まあ、そんなこんなでヤマハ人生が始まったんですが、仕事はバイク屋さん廻りの営業。取引のある店を周り、店主のオヤジと適当に話をして、ホンダやスズキよりもヤマハのバイクを店頭に並べてもらい、在庫として買い取ってもらう仕事でした。それまで沢山の経済・経営・営業の本を読んでましたから、まあ軽いモンだと思ってましたね。しかも、相手は高卒や中卒なんかの店主。頭の良さでは負けないし、少林寺で鍛えた体力と精神力もある。そしてライバルの営業マンは皆、高卒(ヤマハだけが現場の営業も大卒でした)。全てにおいて勝っていると。
★営業成績は最悪
ところが、いざバイク屋サンを廻ると、言葉が出てこない。何を話していいのかわからない。バイクのことは相手の方が詳しいし、経済経営の話なんかをする雰囲気じゃない。どうも店主が好きな話題は、酒や女や遊びの話ばかり。私はそんなことには興味ないし、やっぱり大学出てないヤツはバカだなあと見下しました。ところが(当然?)、ライバルのホンダやスズキの営業マンは店主と仲良く長時間話をしているが、私は立ち寄って在庫や部品の用事がなければ、バカ話をしてもしかたないと退散。そして徐々に、私と店主との間で溝が出来てきました。
まあ、今考えたら当たり前ですね。お互い、嫌ってるんですからね。私はハナからバカにしている。相手も「この大卒の青二才が偉そうに振る舞いやがって」だったでしょう。
今はどうか知りませんが、当時のメーカーの対小売店営業実績は、毎月末にノルマ達成のために在庫を押し込み買い取りさせ、月初めに赤伝(キャンセル伝票)を切る。まあ、人間関係を絡めたお願い営業です。バイク自体は性能にそう差があるわけでなく、それどころか私が入社した年、ホンダはヤマハの機種に総攻撃をかけてきました。原付から大型バイクまで、タクト、VT250、オフロードのXL…。ライバルながら本田のバイクはイイなあと、心底思いましたね。根がバカ正直なので「今はヤマハのバイクより、このホンダのバイクを扱った方が店にとってはいい」と思うので、ヤマハのバイクは売れない。その前に、人間関係がない。だってね、もう夏頃には、バイク屋の前に行くだけで虫酸が走るようになったんです。だから、月末の押し込みお願い営業なんかできない。気づいたら、人のいない道路に車を止めてサボったりし始め、秋には下宿に籠もるようになりました。
「会社に行きたくない。お客に会いたくない」とノイローゼ。当然、営業成績も最悪で、おそらく全社で最低クラスだったでしょう。だって、営業に行かないんですからね。入社半年、「俺の人生は終わった」と心底思いました。残念ながら、この頃は日記をつけていませんでしたね。