連載第二十回目

★エンドユーザーとのふれあい
こうして「毎日がチラシ運搬と配布」の日々が続きましたが、楽しいこともありました。それまでの会社では主にオフィス街の会社が対象の仕事で、会うのは社長やネクタイの男性担当者ばかり。ところが、ここでは一般の中小小売店主や、共に仕事をする主婦の方々200人。つまり、生まれて初めて消費者の現場に近い人達に会い、「こういうエンドユーザーとのふれあいが何かの役に立つ」と自分に言い聞かせました。また、営業所で唯一独身男性かつ年下の私は、ある意味では主婦らのおもちゃみたいな感じで、殺伐とした仕事の中で、彼女たちとの会話は新鮮に感じたものです。
また、主婦リーダーの方々からは、大学まで出たのに単純な肉体労働する私を気遣ってか、「栢野さんは何かをヤル人よ。ガンバって」とよく声をかけてくれました。
しかしまあ、実態は何の変哲もないチラシ配り。「これは現場マーケティングの勉強になるんだ」という気持ちと、「こんなことをやっていてどうするんだ」という気持ちが日々重なり合っていましたね。そして当初、相模原勤務は3ヶ月の予定が「次の代理店が決まるまで」という本社の未定に流されるまま、気づけば1年が立とうとしていました。
★住めば都
住めば都とはよく言ったモンです。あんなに嫌った荒野の相模原も、南へ行けば相模川の自然は素晴らしく、休日は河原で本を読んで、今後の自分の人生を模索していました。
そんなとき、同じ主婦の組織で実業をしっかりやっている会社を知りました。一つは「ぱど」。今や発行部数1500万部?と世界一のフリーペーパーになり、昨年は株式上場も果たしましたね。もう1社が、主婦の声やアンケートを商品開発などに活かしていた「ドゥハウス」。実は「できれば転職できないか」と考えて、「ぱど」の倉橋社長、「ドゥハウス」の小野社長・稲垣専務には会いに行きました。双方とも創業期でしたが、何やら使命のようなものをはっきりと持ち、スゴイ憧れを感じたものです。
ただ、両社とも平均年齢が20代で、既に30歳を越えていた私は「もし転職できても、また社内では出世できないだろう」と諦めました。
そして「俺は大企業から中堅、ベンチャー、中小企業まで、4社全ての就職に失敗した。ホントに恥ずかしい。こうなったら<同期や友人知人にカッコつけるには>、次は社長になるしかないと、独立起業を考えるようになりました。
しかし、何をどうやっていいのか???。やりたいことも???。
★起業意識の目覚め
そこで実行したのが、東京で行われていた各種交流会やセミナーへの参加です。ウオータークラブ、今や有名な作家である中島孝さんがやっていた「キーマンネットワーク」、創業開発研究所の小久保社長がやっていた「自分起こし・会社興しの会」など、ほぼ毎週、小田急線に乗って上京?しましたね。マルチ商法や自己啓発の強引勧誘も受けましたが、刺激的な人達にも数多く会い、徐々に「起業意識」が目覚めてきました。1989年~1990年の頃です。
今振り返ると、まさにバブル絶頂期の最後だったんですね。貧乏放浪リーマンだった私には、全く恩恵はありませんでしたが、驚くべき事は金がない私でも、マルコーの投資用マンションを買ってみるかと考えたこと。その1年後にはバブルが崩壊し始め、マルコーも倒産するんですが、借金しても土地や株を買って当たり前の時代。
狂ってましたね。
しかし、投資する勇気もなく、自分の起業の種を探してあらゆる起業雑誌に目を通し、様々な人に会いましたが、考えれば考えるほど自分の天職が分からない。そんなときに、師匠と慕っていた小久保先生が2日間の「脱サラセミナー」をヤルと知り、たしか2万円くらいで当時の私にはきつかったですが、思い切って参加。
参加者は私ともう一人の2名でしたが、改めて自分の人生を振り返ることとなりました。