連載第十三回目

★社内論文大会の結果
バイト社員だしと諦めていたリクルート人材センター(現リクルートエイブリック)の社内論文大会ですが、結果はなんと銀賞のシルバーシーガル賞。第2位です。当時はたしか全社合わせても100人?位だったと思いますが、バイト社員が入賞するのは前代未聞の奇跡!と大騒ぎになりました。へー、あんな日記がそうなの?という感じ。
よくわかりませんが、「理論や理屈抜きで、営業のリストアップからアプローチ、最初の飛び込み営業で断られ、でも諦めずに再度チャレンジして受注。ところがキャンセルされて一度は諦めたが、再度客のことを考えて独自商品を編み出して再び受注・・・という臨場感が良かった」と、営業部長の松原さんから誉められました。
そしてある人から「本当は内容では栢野が金賞だった。でも、やはりバイト契約社員を優勝にするのはマズイ」という噂も聞き、悔しい思いもしましたが、まあうれしいことには変わりない。賞金もたしか20万くらいもらいましたね。でもそれは日経ベンチャー研究会?という日経新聞主催のビジネス交流会への入会金・年会費に使いました。なかなか大した使い方でしょ。こうした出来事もあり、かつ、営業成績も新規開拓では社内トップクラスだったので、徐々にというか、自分も周りも「正社員になる」という意識を強烈に持つようになりました。
★社員試験を受ける決意
中途採用広告の営業では数百社を回りましたが、なかなかリクルート以上に魅力ある会社はない。やはり、ここしかない。それと、当時は社内で恋愛営業も複数の女性に相当かけていて、特に中村りつ子さん=通称りっちゃんが大好きで、彼女は司法書士を共に目指す彼がいたんですが、正社員になれば正々堂々と告白・交際を申し込める。バイト社員の身分ではダメだ。ナントしても正社員に!と日に日に気持ちは高まっていきました。実はその前に、私の先輩で相当できるMさんが社員試験を受けたんですが撃沈。あの人でも落ちるのかと動揺しました。その他も、バイト社員は正社員を目指してやってましたが、まあ、95%以上は不合格でしたね。今はどうか知りませんが、当時の基本基準は「リクルートの同じ年齢の正社員トップクラスと同等の実績・資質を持つモノ」しか正社員には慣れないという不文律がありました。だから、新規開拓でトップ+論文大会で2位という実績もスレスレか。
★最終役員面接へ
そしてついに正社員試験を受けることに。当時はリクルート人材センターは親会社の(株)リクルートに人事権があり、まずは人材センター社内では合格。次は(株)リクルートの人事部面接でこれもクリア。ザマアミロ、やっぱり俺は出来るんだと思い、社内の同僚達も「栢野なら大丈夫だ!」と、実は最後の面接=本社取締役面接の前日「栢野正社員昇格!前祝い飲み会」を朝の4時までやってくれ、二日酔いの状態で最終面接に臨みました。覚めた頭で考えると、当落ギリギリか、やはり実績で足りない。ここは一発バクチを打たねばと、ある言動をしようと決めました。で、最終役員面接。次々に質問が飛び交い、順調にクリア。そして最後の「何か言っておきたいことはあるかね?」で、まってましたと「実は私はリクルートには長く居るつもりはありません。まあ、長くて5年ですかね。リクルートは求人広告がメインですが、私は何かの商品広告の新媒体でも創り、独立起業したいですね」と言いました。なんで社員試験なのに辞めるなんて言うのだと思うでしょうが、リクルートの社風は「社員皆起業家精神」。会社にしがみつくのではなく、独立するような社員が好かれると勝手に解釈し、その気概を訴えてやろうと思ったのです。
★そして発表
こうして最終面接も終了。あとは結果を待つだけですが、数週間が過ぎてそろそろ発表の頃かなと考えていると、マネジャーの澄谷さんから「栢野、ちょっと応接へ」と肩を叩かれました。いよいよだなと期待半分不安半分で部屋へ。しかし、澄谷さんの顔が暗い。
「残念だがダメだった。△□・・・」。何か理由を言っていた気がしますが、もう上の空。まさに星飛雄馬が恋人の美奈さんから「私は癌で死ぬの」と言われたときのように「ガーーン、ガーーン、ガーン」と言う感じ。何とか机に戻りましたが、働く大好きな皆の姿を見ながら、「ああ、もう俺はここでは働けないんだ。皆との楽しい日々はもう終わりなんだ。りっちゃんとももうこれでダメだ」と思い、また、土下座してお客に無理矢理受注を恵んでもらったこと、応援してくれたお客、澄谷さんや同僚との大ケンカ、年間目標達成で大喜びしたこと、最高の社内旅行…まさに走馬燈のように過去の思い出が甦り、こらえようと思ったんですが号泣しましたね。皆がいる前でです。声を出さないようにしても止まらない。泣きながら自分でもビックリしたんですが、本当に心の底から悲しかった。
まあ、今から考えればまだ若い26歳でしたが、40歳の時に大変世話になったある社長が突然亡くなった時と同じくらい、泣きました。
澄谷さんが別室にまた連れて行ってくれましたが、ヤマハをノイローゼで辞めたとき以上に、深く深く絶望しました。何で俺はまたダメなんだと。今後のことは勿論、何も決まっていませんでした。