連載第十四回目

★不合格でやる気を失う
リクルートの正社員になることしか考えてなかった私は、不合格となって完全に目標を失いました。毎日朦朧としていて、営業もできません。そのことを素直に話すと、マネジャーは私を新人のリーダーみたいな立場にしてくれ、現場の一線から引きました。まあ、そんなヤル気のない人間の下になった同僚もたまったもんじゃないですね。たしか1年経てば、再度、正社員試験を受けられたんですが、そこは意地っ張りで素直じゃない性格(恋愛だと、結構振られてもアタックしたんですがね。全部撃沈でしたが)。こうなったら、リクルート社よりも難しい会社に就職してやろう、そして皆を見返してやろうと、同じ広告会社では地位が上の「スタンダード通信社」や「帝国データバンク」、日経ビジネスを発行している「日経BP社」の販売会社などを受けましたが、まだ傷が癒えないのと実力経歴不足で不合格。同じリクルート子会社の販社・東京リクルート企画からも話は貰いましたが、もうリクルート関連はいい。私がいたリクルート人材センターは現在のリクルートエイブリックで、本業は民間人材銀行。登録すると様々な会社を紹介してもらえるんですが、なんか身内ではやりにくいし嫌だ。そうこうするうち、人材センターOBで「ターン具ポイント」という人材銀行を起業していた小松さんと橋本さんを訪問。そこで「コンピューターシステムリース:CSL」という会社を打診されました。
★優良ベンチャー企業の就職試験
当時、この会社は知る人ぞしる優良ベンチャー。株主は日本IBM・オリックス・モルガン銀行で、IBM専門のリース会社でした。
当然、リクルート人材センターも取引があったんですが、東大や京大や早慶の優秀?な人を紹介しても、採用基準が高くてなかなか採用されない。なにせ、このビッグ3、3社の基準をクリアしないといけないので、リクルート社内でも話題の会社でした。「ああ、CSLか。格好いいな。でも、俺なんて無理に決まっている」と思ったんですが、小松さんから「受けるだけ受けてみれば。練習、練習」と言われ、気楽に受けてみたんですが、これがまた何を間違ったのか合格してしまった。過去の採用基準ではどうみても無理なのに。
まずは大学。私は立命館大学でしたが、中途の場合は国立一期校+早慶+同志社・関学まで。立命館は最低レベルでした(もうこんなの関係ないですがね。昭和60年当時、こういうエリート系の会社では歴然と学校差別はありましたよ。一部の遅れた大企業は今もかな?)。「やった!!CSLなら、誰に対しても恥ずかしくない。俺を落としたリクルートの連中にも堂々と胸を張れる!」と思い、すぐに即決で入社を決意。
★大阪支社勤務に
一つ残念だったのは、入社の条件が大阪支社勤務。愛するりっちゃんや田子チャンや、その他東京時代に知り合った青春人脈と離れるのは凄く寂しかったですが、まあ仕方がない。当時26歳でしたが、もう落ち着きたかった。つまり、それまでは対外的には「リクルートの栢野です」なんてお客にも友人にも行ってたんですが、実際はアルバイトの身分。これがもの凄く恥ずかしかったし、常に精神的・経済的に不安だった。正式な恋愛も結婚でもできないと思っていましたね。そういうバイト社員の悲哀もわかるのか、リクルートの皆も喜んでくれ、盛大なお別れパーティを開いてくれました。50人くらいから励ましの色紙をもらい、挨拶を終えると突然、「贈る言葉」が流れてきました。
♪暮れなずむ町の~・・・・
これから始まる 暮らしの中で だれかがあなたを 愛するでしょう
だけど私ほど あなたのことを深く愛した ヤツはいない 
遠ざかる影が 人込みに消えた もう届かない 贈る言葉♪
ある人が飲み会で「栢野は論文大会で準優勝し、営業成績も新規でトップクラス。ある時は強引な営業をやりすぎて警察を呼ばれる営業もし、社内恋愛も活発でフラレまくる・・・。まあ、いろんな話題を提供してくれたね。その栢野がCSLという素晴らしい会社に就職が決まり、そして東京を、リクルートを離れていく。まさに別れであり、新しい人生が始まるんだね」と言ってくれましたが、まさにその歌は私のとって最高の卒業歌。悲喜こもごものリクルートの3年間が甦り、そしてもう、皆と今日でお別れなんだと思うと、またも号泣しましたね。悲しくて切なくて。でも、これからは一人で歩いていくんだと、見知らぬ大阪へ旅立ちました。まさに後ろ髪を引かれる気分で。その3年後、最悪の状態で東京に戻ってくるとは思いもしませんでしたが